日本では、マッスルコントロールの神様・マックス先生で知られる本名Max Sick(1882年6月28日〜1961年5月10日)は、「Maxick(マクチグ)」の名でパフォーマンスをしていたドイツの鉄人(アイアンマン)、ストロングマン、ボディビルダーである。

少年時代に独自の手法で筋肉を自由自在に操り、筋肉を発達させるマッスルコントロール法を開発した。

そして、ビジネスパートナーのモンテ・サルド氏とともに、マッスルコントロールにより筋肥大を促すボディビルディングのトレーニング法である「Maxaldingシステム」を開発した。

「Maxaldingシステム」の基本的ノウハウは、Maxickが著した書籍「Muscle Control」(1911年発刊)に掲載されている。

 

マッスルコントロールで負け犬が勝利者に!:幼年期から少年期にかけて

Maxickは、1882年、スイス人の両親のもと、オーストリアのブレゲンツで生まれた。

彼の父親は24歳で亡くなり、その後、母親はババリア人、ハー・シックと再婚した。

それから後、Maxickはドイツに帰化した。

2歳から5歳の間、Maxickは極めて身体が弱く、肺疾患やくる病、水腫を患っていた。

病気の影響があまりにひどく、ようやく歩けるようになったのは6歳の時だった。

この頃、同年代の少年たちと直接接する機会を得た。

その時、彼らが元気に屋外で遊ぶ姿を見るにつけ、健康体への憧れがとても強くなっていった。

その憧れに端を発して、身体を鍛える決意をし、家でダンベルでエクササイズすることを両親にせがんだ。

しかし、Maxickの両親に
「お前のような病弱者はできる限り休息して、食事も医者の言うとおりにするのだ」
と言われ、諦めざるを得なかった。

その後、10歳の誕生日を迎える頃には、少しばかり健康が回復した。

しかし、身体のサイズが小さく、筋肉も弱かった。

見た目も同年代の子供に比べるとはるかに幼く、6、7歳の少年のように見えた。

ちょうどその頃、Maxickの住んでいる町にサーカスの一団がやってきた。

その一団の見世物の演目に、ストロングマンのパフォーマンスであるヘラクレスのショーがあった。

強い肉体への憧れから、その演目を見たいと両親にせがんだが、相手にされなかった。

仕方なく、自分の持ち物を市場で売ってお金を作り、サーカスを見に行った。

そこで見た、ストロングマンのヘラクレスのショーに感銘を受け、たくましい体への憧れが強くなっていった。

そして、再び肉体トレーニングに挑戦すべく、自宅で石を使ったダンベルを自作した。

しかし、両親がウエイトトレーニングに反対し、このダンベルを壊してしまった。

このような挫折にもめげず、身体を鍛錬することを決意して、自室で器具を使うことなく筋肉を鍛える方法を考案していった。

筋肉をストレッチしたり、収縮させたりしたしながら、ついに一連のマッスルコントロール・トレーニング法を編み出した。

このマッスルコントロール・トレーニングのおかげで1年後には、健康面と体力面においてとても改善した。

Maxickが14歳の時、町のどんな男性よりも遠くに小麦粉の大袋を運ぶことができた。

そんな名声、または悪評はたちまち広まった。

この業績によって、1896年、身体が目覚ましく発達したことで、地元のアスレチック・クラブへの参加を招待された。

その後、しばらく軍に服役していた。

Maxickは、地元のエンジニアリング業務で整備士として訓練を受けていたが、23歳でその仕事を辞め、自分の身体的特性をもっと活かした仕事に就こうと決意し、ミュンヘンに移り住んだ。

そこでジムに参加し、芸術家のモデルとしての仕事をすぐに見つけた。

当時の身長は 163cmに満たず、体重は67kgだった。

マッスルコントロールの達人、鉄人(アイアンマン)として活躍:青年時代

Maxickは、ドイツの音楽ホールで出演するようになり、ステージ中に音楽に合わせて筋肉を色んな風にピクピクと動かすパフォーマンスを演じた。

片方の手でマグカップに入ったビールをこぼさずに持ちながら、自分より20kg重い人間を片腕で16回持ち上げたりもした。

並外れた筋肉質の体格と体力によって、彼は非常に人気のあるパフォーマーとなった。

その頃、アフリカの身体鍛錬家にして英国アマチュア重量挙げ協会(BAWLA)の創設者であるトロンプ・バン・ディゲーレンは、Maxickのパフォーマンスを見たあとにロンドンへ赴いた。

そして、彼を英国に招いて出演させるよう、後にボディビルの父と呼ばれるユージン・サンドウを説得した。

1909年10月26日、Maxickはロンドンに到着し、たちまち世界プロミドル級重量挙げ選手権の大物選手と注目を浴びた。

しかし、トーマス・インチ(当時のミドル級チャンピオン)は急速に体重が増えていたため、選手権までにはミドル級のリミットを超えるだろうと予想された。

そして、予想通り1910年の初め、インチはヘビー級に昇格し、ミドル級のタイトルをエドワード・アストン に明け渡した。

その後、アストンとMaxickの競技試合が早速まとめられた。

Maxickは、1910年1月19日に英国の重量挙げにデビューし、絶賛のダブルウエイトリフティング(コンチネンタル・リフト&ジャーク)を披露した。

エドワード・アストンとの試合は、1910年8月4日にフルハムのグランビル音楽ホールで行われ、その賞金は100ポンドと銀トロフィーだった。

競技中、Maxickは、片手のクリーン&ジャークで212.5ポンド(96.2kg)と207.75ポン(94.1kg)を挑戦中に肩を痛めた。

だが、この怪我にも関わらず試合を続行し、264ポンド(119.5kg)の両手クリーンまではなんとかこぎつけた。

しかし、ジャークに失敗し、競技から敗退した。

そして、その夜に行われる演劇のために試合はそれまでで終了した。

Maxickは、マッスルコントロールだけで信じられない筋肉質の体格と力を発達させたと語っていたが、実際は重量挙げのエキスパートでもあった。

これは、ウエイトトレーニングもしていたということである。

彼は、ダブルボディ・ウエイトでコンティネンタルとジャークをこなす能力があったのだ。

参考までに、記録に残っているMaxickのウエイトリフティングの挙上記録を記す。

この頃のMaxickの体格は、身長5’3.75インチ(164cm)で、体重147ポンド(65.6kg)

【挙上記録】

・右手だけでミリタリープレス – 112ポンド(50.7kg)
・右手だけでスナッチ – 165ポンド(74.7kg)
・ダンベルを右手だけでスイング – 150ポンド(67.9kg)
・両手で両肩まで引き上げたのち右手だけでジャーク – 240ポンド(108.7kg)
・両手でミリタリープレス – 230ポンド(104.1kg)
・両手でクリーン&ジャーク – 272ポンド(123.2kg)
・両手でコンチネンタル&ジャーク – 340ポンド(154.0kg)

さらに、体操とハンドバランス(逆立ち)の達人でもあった。

また、「Finger pulling」という相手と指を引き合い勝負を争う競技において、200ポンド(90kg)以上の体重がある大男たちを次々と打ち負かし、無敗であった。

そして、Maxickは、後に鉄人のモンテ・サルド、ウイリアム・バンキアーとビジネス・パートナーになった。

マッスルコントロールについての著作を多く残し、モンテ・サルドと開発したマッスルコントロールのマスターコースは、Maxaldingの名で 1970年代に入っても売られていた。

1913年、南アフリカのトロンプ・バン・ディゲーレンを訪ね、自分のスキルを披露した。

第一次世界大戦が勃発し、Maxickは、志願により英国で敵国人として抑留された。

「プロシアのいじめっ子」として服役するのを拒否したため、祖国へ戻って入隊したくなかったのである。

終戦時に解放されて世界中を旅し、最終的に祖国へ帰ったものの、1933年にナチスが実権を握るとまた去ることになった。

その後、中南米を探索し、最後にブエノスアイレスで腰を落ち着けた。

マッスルコントロールの神様が遺書を残して他界:晩年

Maxickは、ブエノスアイレスでジムとヘルス・スタジオを開いていた。

そして、1961年に78歳で他界した。

他界した日には、友人と腕相撲をし、自転車に乗って帰宅していた。

後に、亡くなっているのが発見された時は、両手を広げて仰向けにリラックスした状態で、右足のかかとの下に丁寧に折り畳まれた遺書が残されていた。

そこには、「心臓の鼓動がとても遅く、非常に寒い。もうすぐ終わりなのだろう。意識の中で現れる自由は無限だということを忘れないでください」
と書かれていた。

マッスルコントロールで明かされた究極の器具なし自重トレーニング

Maxick著の「マッスルコントロール」には、マッスルコントロールの極意が細かく丁寧に解説されている。

主な内容は、
・マッスルコントロールの基本的な筋肉の動き
・機械的な運動が筋肉の発達を妨げる理由
・筋肉の緊張とリラックス
・トレーニングで絶対にやってはいけない動き
・意志の力とマッスルコントロール
・日々行うトレーニングでの注意点
・具体的な身体部位別のエクササイズ(胸筋、広背筋、僧帽筋、三角筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋、大腿四頭筋、大腿二頭筋、カーフ、腹筋)
である。

このマッスルコントロール・トレーニング法のノウハウの詳細については、こちらで解説しています。