アール・E・リーダーマンは、20代を通じてボディビルディングの通信教育コースの販売で非常に成功を収めました。
彼はもともと「元祖近代ボディビルディングの父」と呼ばれたドイツのユージン・サンドウに触発され、彼らは親密なビジネス仲間となりました。
アール・E・リーダーマンは、チャールズ・アトラス、ジョージ・ジョヴェット、アーサー・ヒソン、アベ・ボスなどを含む多くの有名な肉体鍛練家たちをクライアントに持ちました。
第二次世界大戦後、彼はアメリカのフィットネス雑誌であるマッスルパワー誌の編集者となり、ボディビルディングや筋力トレーニングに関して多くの記事を書きました。
目 次
近代ボディビルディングの父とは彼のことだ!
私は長年の研究の結果、アメリカ人の現代ボディビルディングの基礎を作り出し、発展させてきたのはアール・E・リーダーマンだと考えています。
1910年代後半から1920年代にかけて、リーダーマンは通信教育販売界におけるボディビルダーの王者でした。
現代においても、彼が出版してきた本は、身体的強さの発達に関するもっともすばらしいものであるといえるでしょう。
ただ、彼は自分の人生について多くを語らなかったため、人生の細かいところはわかっていません。
彼の誕生日でさえ、あいまいなのです。
一応伝わっている情報では、彼はスウェーデンからの移民である両親のもと、1886年にニューヨークのブルックリンで生まれました。
そしてニューヨークのジャマイカ地区の高校を卒業したと言われています。
卒業後、彼はニューヨークの教育委員会で働き始めました。
教育委員会で働いている間、リーダーマンはボクシングに挑戦してみました。
しかし、ボクシングは自分に向いていないと気付くのに時間はかかりませんでした。
次に、レスリングに挑戦しました。
これもまた、彼の追い求めるものではないと気付いたのです。
しかし、彼がレスラーとして活動しているとき、スカウトをされました。
彼にはすばらしい身体能力とルックスという武器があったからです。
1910年、リーダーマンはそれが天職であり、運命だと悟りました。
リーダーマンは8年以上もの間、身体能力とルックスを武器にツアーをし大成功を収めました。
この間に彼はチャールズ・アトラスというパートナーと出会いました。
彼らは一緒にオルフェウスのツアーを行い、たくさんの筋肉を使ったデモンストレーションや離れ業披露しました。
そしてて、彼らは信じられないほど人気が出てアメリカ中の劇場がソールドアウトになるほどでした。
ボディビルディングの通信教育の販売で大成功!
アール・リーダーマンは劇場での活動期間のおかげで、ショーマンとしての才能を開花し、自信にあふれましたが、やがて巡業地での生活に疲れてきました。
それで、1919年、彼は長年温めてきた計画を実行することに決めました。
それは、運動管理療法、すなわち筋トレの方法を発表し、それを通信教育で販売するというものでした。
何年にもわたり、お客様の声を聞いてきたおかげで、彼は自分のことを待ってくれているお客様がいることがわかっていたのです。
それにアールは自分のコースは誰にとってもうまく機能することがわかっていました。
結局、長いツアーの間に、全く行けないことはないにしても、ジムに行けなかった日は数か月ありました。
その間、初歩的なフリーハンドでできる自分なりのエクササイズを作り出しました。
いくつかのエクササイズではゴム製のエキスパンダーのような道具を使用しました。
彼のようにすばらしい目標達成するために、誰でも自宅でできるトレーニングがすべてのコースで書かれていました。
そのコースを売り出すために、リーダーマンはみんなの悩みや不安にふれるような力強い宣伝コピーを書きました。
若者たちはリーダーマンに見られる強さや自信を探し求めて、反応しました。
彼の広告に興味を持った人に、リーダーマンは手の込んだ上手なイラストの入った筋肉の発達についてのパンフレットを送りました。
パンフレットには、彼のすばらしい生徒の証言やテクニック、哲学の説明に加えて生徒の写真も載っていました。
パンフレットの第7版では、彼の最も尊敬する生徒、チャールズ・アトラスの写真を何枚か載せました。
驚くことなかれ、リーダーマンの通信教育販売のコースとチャールズ・アトラスのダイナミックテンションのコースは実質的には同じ方法が採用されていました。
しかし、チャールズ・アトラスのコースは自分の体重以外の負荷を使っていませんでした。
一方、リーダーマンは胸にはエキスパンダーを使ったエクササイズをいくつか載せていました。
リーダ―マンのコースは、主にフリーハンドで驚異的な上半身の強さと発達をカギとする腕立て伏せや、片脚スクワットで下半身を鍛えることを強調しました。
彼は生徒たちに何セットもくり返すことは勧めませんでしたがが、様々な種類のチンニング(懸垂)をするように勧めました。
ところが、他のエクササイズでは6〜8セットの多セットを好んでいたようです。
(腕立て伏せとフルスクワットは例外ですが)
腕立て伏せのために、私はリーダーマンの『12週間ボディビルディングコース』のレッスン7から引用します。
「少なくとも週に1回はフロア・ディップスまたは腕立て伏せをするように。
そして何回、足を床につけたままそれができるか確認してください。
言い換えると、それは簡単なルールなのです。
私は休憩なしで101回します。
私はどれほどの忍耐強いトレーニングが役に立つのかをあなたに示すためだけにこれを書いています。
あなたが休憩なしで、73〜101回できるころまでには、上腕三頭筋は言うまでもなく、すばらしい胸の発達になるでしょう。」
さらに同じレッスンの最後の文章では、リーダーマンは次のように言っています。
「腕立て伏せの記録や強さを試す別の方法は、あなたの肩の間か頭を誰かに押し下げてもらうことです。
床にうつ伏せになっている間に腕立て伏せに挑戦します。
しばらくして、あなたは誰かをあなたの肩に座らせ、押し上げます。
もしあなたがこれを2回できたら、とてもすばらしい。
なぜなら、すばらしい離れ業だからです。」
すばらしい時代から世界恐慌の時代へ
1920年代を通して、リーダーマンは大成功をおさめました。
1920年には、彼のコースは32ドルで売れました。
それは現代の価値で言うと324ドルとなります。(日本円で約35,600円)
彼は高級車を何台も所有し、ミスコンの優勝者をを妻とし、あらゆる成功を手に入れた億万長者となったのです。
1920年代、彼はアメリカンドリームそのものでしたが、それは1929年10月に株式市場が急落し、一気に崩れなることになりました。
1930年の初めには、美しい妻も含め、彼はすべてのものを失いました。
しかし、どんな困難が起ころうとも、リーダーマンは自分を見失いませんでした。
1930年代には、ニュージャージーで女性から大人気のラジオのエクササイズ番組の司会者となりました。
オンエア中のトレーニングの合間に詩を読むことで、リスナーに強くてハンサムなだけではなく、繊細な魅力が伝わり、人気へとつながったのです。
1940年代は、以前の弟子に誘われて、ハリウッドに引っ越しました。
そこで彼は、クイズ番組の台本を書く仕事をしましたが、ボディビルディングへの興味は失っていませんでした。
当時、ジョー・ウィダーが新作の編集者を探していて、その仕事をすることになったのがリーダーマンでした。
『ウィダーのマッスルパワー誌』は1945年に発行され、リーダーマンのおかげで当初からヒット商品となりました。
後年、彼は以前のようなクリスチャンとなり、人生のすべてを新しい信仰に捧げました。
1970年に亡くなるときは、宗教的信仰の本が完成していました。
もちろん、生涯にわたってボディビルディングや筋トレの本を多数出版しています。
機会があれば、ご紹介しますので楽しみにしていてください。